国史跡 志太郡衙跡 > ボランティア「志太郡衙の風景4」
 志太郡衙の風景4
◆グンガソムリエの興津さんからの記事(第4弾)を紹介します。
郡衙4
 郡衙跡の資料館には、2・3種の「国指定史跡 志太郡衙跡」ガイドが置かれている。見過ごすことが多い解説の中で、目にとまった記事があった―郡衙跡のなかでひときわ目立っているのが大型の土間床掘立柱建物。五間三間の建物で、奈良時代の高官・藤原豊成の板殿を参考にして設計された。板葺の切妻、4寸勾配の葺降し大屋根が特徴的。切妻屋根とは本を伏せたように両側勾配をとった屋根。
 ついでに「衙」=ふせぎ守る意から転じて役所。ここでしか用がないような字なので、皆さん戸惑うのも無理はない。私が引っ掛かったのは藤原豊成板殿。調べてみると、「天平宝字年間の石山寺造営にあたり、信楽(しがらき)にあった豊成の板殿を購入・運搬して食堂にあてているが、関野克らの正倉院文書の研究によって奈良時代住宅の貴重な復元例となっている」。移築された食堂は切妻造・板葺・掘立柱(建物規模略)とあって、なるほど!
 ところで相良・平田寺の国宝「聖武天皇勅書」に左大臣・橘諸兄・右大臣・藤原豊成らの名が記されているが、これは天平感宝元年、天皇の発願により南都五大寺に絁・綿・墾田などを施入して天下泰平万民快楽を祈誓したもの。豊成の弟が藤原仲麻呂。仲麻呂は孝謙天皇や道鏡を相手に、朝廷政権で大立ち回りを演じている。そして中衛府の大将・仲麻呂とくれば‘やらせ’疑惑。―蚕が生んだ卵の文字の瑞兆、「五月八日開下帝釈標知天皇命百年息」=天皇長寿と天皇家繁栄の予兆、が中衛舎人・賀茂君継手により国司や郡司の頭越しに益頭郡から献上された。
 それにしても、志太郡衙跡から「中衛」と記された墨書土器が出土しているなど、益頭郡との交流も推察されて興味が深まる。たとえ仕組まれたことであっても、仲麻呂は改元や恵美押勝の乱とともに郷里を舞台として私の脳裏に刻まれた。対する兄貴の藤原豊成とも郡衙掘立柱建物や「聖武天皇勅書」を通して、名刺ほどではあるが、新たにおちかづきになった。

                            
参考書『正倉院文書の研究9』他、『藤枝市史 資料編2 古代・中世』『続日本紀』

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