■田中城について
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今から500年ほど前、今川氏の命令を受けた地域の有力者・一色氏が屋敷を拡張して城としたのが始まりと伝えられます。その後、駿河を領地とした武田氏により三之曲輪までが整備され、江戸時代初めには円形の堀が増設されて直径約600mの丸い城が完成しました。 現在、西益津小学校のある場所が本丸跡で、西益津中学校の場所に藩主の屋敷があり、政治を行う場所である御殿が建っていました。江戸時代には4万石ほどの譜代大名が藩主となり志太平野の村々を治めていました。しかし、明治維新で田中城は廃城になり、城跡も民間に払い下げになりました。 |
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| ■田中城下屋敷 |
| 田中城の南東隅にあたる下屋敷跡周辺は、一色氏とその子孫の古沢氏の屋敷があったとも伝えられます。江戸時代後半には藩主の下屋敷が置かれ、築山・泉水・茶屋などを設けて四季の景色を楽しんだといいます。 |
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| ■田中城本丸櫓 |
| 櫓は田中城の本丸にあり、高さ9尺(2.7m)の石垣の上に建っていたといいます。本丸の南東隅の石垣上に「御亭(おちん)」と呼ばれた二階建ての建物があったことが記録にみえ、これにあたると考えられます。明治維新の時、田中城には高橋精一(泥舟)が奉行として入城しました。村山氏はその配下となり、また泥舟の4男を養子としたことから明治3年にこの櫓を払い下げられ、移築して住宅としていました。泥舟はこの建物に「光風霽月楼(こうふうせいげつろう)」と名付け、扁額(へんがく)を掲げています。屋根はもと柿葺き(こけらぶき)だったようです。田中城内から移築した建物では最も著名なものです。 |
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| ■茶室 |
| 茶室は明治38年ころ、千歳にあったものを奥野氏が譲り受けたといわれます。もとは田中藩家老の茶室であったとも、下屋敷庭園の茶屋ともいわれていますが詳細はわかりません。建物は瀟洒な作りの数寄屋建築で、西側の四畳半の間が茶室、東側には給仕口がついた六畳の待合いが付いています。 |
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| ■仲間部屋・厩 |
| 仲間部屋と厩(うまや)とを1棟に仕立てた建物で、一方の鬼瓦に藩主・本多家の立葵の紋が刻まれていました。また、解体にあたって「安政六年」(1859)と書かれた板材が発見されました。 |
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| ■長楽寺村郷蔵 |
| 郷蔵とは年貢米や飢饉に備えた非常米を保存する為の蔵で、江戸時代には各村ごとに置かれていました。村役人が管理しており、夜間は畳敷きの小部屋に2人1組で泊まり込みの番をしました。長楽寺村の郷蔵は明治10年ころに中西家に払い下げられました。この時の郷蔵の半分を切り取って移築したといわれ、現在の倍の大きさであったと思われます。長楽寺村郷蔵は市内に現存する唯一のもので、柱には立て替え時の年月と庄屋の名前が記されています。 |
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