国史跡 志太郡衙跡 > ボランティア「志太郡衙の風景2」
◆グンガソムリエの興津さんからの志太郡衙を紹介する記事 第2弾です。
 
 
志太郡衙の風景 2」

 

 水の流れや、鯉の泳ぎ、時には餌を狙っている青鷺を眺める程度で通り過ぎていた川、その川沿いを、何を眺めるともなく私は歩く。発端は塩出谷川。志太郡衙跡の脇を塩出谷川は流れる。いままでは整備された水路ぐらいにしか思わず、その名を気にもしなかった塩出谷川は内瀬戸川と合流し、青木川、そして瀬戸川へ流れ込む。内瀬戸川、青木川だって私には、鯉が群れる川で事足りていた。

 志太郡衙跡近くに、「塩出池」を地図で見つけた。池の名に興味を覚えて駿河台へ。保健センターの対面、通りを隔てて堤の裏に池はあった。その昔、谷が深く、塩(潮)が湧き出たことに因んだ名称かと期待したのであるが、同地域の整備事業の際、急勾配の宅地に雨が降った場合の排水調整のために設けられた池(調整池)だと教えられた。肩すかしをくらった思いで眼をやれば、広い池面に鳥が水輪を描き、池端の大木には川鵜が群れとまり、住宅地には珍しい風景を作っている。

八木博物館長にこのいきさつを話すと、即座に「潮生館があるでしょ。あの一帯は塩水が湧き出て、塩場ヶ谷(ションバーギ)とも呼ばれた。薮田・潮なども……」

うかつだった。しっかり覚えていれば歩くこともなく……とはいえ川鵜の集落に出会えたじゃないか。 昭和52116日、市教育委員会の手で発掘調査が進められていた御子ヶ谷遺跡を、見学にみえた原島礼二・埼玉大学教授は「東歌と志太の浦」と題して、同遺跡と万葉時代の環境について記述している。(『万葉集の考古学』森浩一編)その記事に「塩出谷川」をみつけて、私は上記の散策を試みたしだいである。
人に地名に風景に、足で知る歴史って、たいした発見はなくても自分の中で拡がり、つながって行くものなのだ。


川鵜



図

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