国史跡 志太郡衙跡 > ボランティア「志太郡衙の風景3」

◆グンガソムリエの興津さんからの志太郡衙を紹介する記事 第3弾です。

icon_arrowclearfix 志太郡衙の風景3
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 時々他県から古代史の専門家や研究者がみえるという郡衙跡は閑静なたたずまい。では郡衙跡発見(誕生)当時のようすはいかがであったか、志太郡衙跡(当時は御子ヶ谷遺跡・みこがやいせき、と呼ばれていた)が発掘された30年前(1977年)の現場に、新聞報道を拾って私も立ち会ってみた。当時は藤枝に住んで数年経った頃で、遺跡発掘のニュースは私の耳目を素通りしただけ。
まず、静岡新聞社に当時(昭和52年)の志太郡衙に関する記事を探してもらったが、掲載日付などを特定してほしいという。じつはそれが知りたかったのだ。そこで博物館に行き、事情を話すと、岩木学芸員がパソコンを検索し、市史編纂にかかわる資料から、発掘当初の報道記事を即刻引き出してくれた。

 昭和52年10月8日「‘郡衙跡’見学ラッシュ」 11月7日「極めて重要、保存を―日本考古学協会員ら視察」 11月24日「土器、石斧など500点―藤枝 埋蔵文化財を公開」
12月29日「郡衙跡、力合わせ保存―学術的に貴重と・・・」
発掘記事

clearfix 上は3か月間の静岡新聞記事の見出しである。
西からは岸俊夫京都大教授、東からは井上光貞国立歴史民俗博物館館長の日本古代史の両重鎮が、いち早く御子ヶ谷遺跡を訪れるなど、考古学、古代史、地理学、古建築学会の先生方が数多く藤枝に足をはこんだ。この頃より御子ヶ谷遺跡(郡衙跡)保存が協議され、55年(1980)10月22日、国指定史跡となる。「塩出谷川」散策のきっかけになった原島礼二教授の論文は、11月7日の記事にある「視察」によって生まれたのである。当時の熱気が伝わってきます。郡衙跡誕生から30年、郡衙の時代の人々の眠りを、万葉時代の風景とともに呼び覚ます。1200年前、古代だって昨日今日じゃないですか!豊かさってそういうもの、ねえ皆さん

clearfix《志太郡衙跡(御子ヶ谷遺跡)の地域は日本住宅公団施工の区画整備事業(現・駿河台団地)のなかで下水終末処理場用地として計画されていた。この造成工事に先立ち、昭和52年4月から53年3月にかけて実施された発掘調査で、板塀に囲まれた建物遺構群や墨書土器(志太・大領、志太少領、主帳、志太厨などと墨書きされた土器)、生活用具などが大量に出土した。これらが律令時代、駿河国志太郡衙跡であることの根拠になる。》

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